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トリオ雑感

更新日:2020年7月7日

Voici un extrait "version original" d'une page internet japonaise sur l'histoire des grandes marques de haute-fidélité du pays. Vous noterez la référence aux enregistrements Charlin distribués là-bas par Trio-Kenwood dans les année 1980/1990. Ils sont jugés comme un exemple particulièrement pertinent de la quête de la maison Kenwood vers la perfection sonore.


昔の社名「トリオ」が、春日無線電機商会として、設立されたのは、敗戦の翌年のこと。この年には「東京通信工業(現ソニー)」と「大阪電気音響(現オンキョー)」も産声をあげた。

 その春日無線の成り立ちは高周波コイルの製造である。いわゆる戦後、電気のマジックに魅せられた少年たちの行き着くところは、アマチュア無線かラジオづくりであった。やがて時代はステレオ、そしてFMの時代となり、トリオのお家芸、アマチュア無線の高周波技術が、一気に時代をリードするのである。

 とにかく、FMチューナーにおけるトリオの一人勝ちは長らく続いた。なにしろ、FM人気の全盛期、TOKYO FMの時報の提供を、トリオが一社でおさえていたのだから無理もない。そのおかげで、オーディオ道楽に縁のない女性たちにも、トリオの名は知れ渡った。






 もう一つ、トリオは関連事業にも意欲的だった。フランスのレコードレーベル「シャ ルラン」の輸入と、自社の「トリオレーベル」を事業化していた。とりわけ、フランスの録音エンジニア、アンドレ・シャルランによるワンポイントマイクのステレオ録音は、マイクの数を競うマルチ録音とは対照的に、その自然な音場感が玄人筋に大層受けた。また、アメリカのスピーカーブランド「ボザーク」の輸入代理店になっていた。

 不況知らずだったオーディオ産業は、ビデオの普及に押されて不況業種の落胤をおされた。ステレオご三家のうち、パイオニアはレーザーディスクに活路を見いだし、4チャンネルブームに先鞭をつけたサンスは青息吐息。トリオも同様に創立以来の大幅な赤字に陥っていた。

 その苦境を救ったのが、日銀の理事からトリオの顧問に就任し、1980年に社長となった石坂一義氏である。「国内と海外でブランドが違うのはいかがなものか」の鶴の一声で、ブランドを「KENWOOD」に統一。CI 戦略をもってデザインも一新。これが功を奏した。経済界からも注目され、多くの企業にCI 戦略の重要性を促す契機にもなった。そして1986年、社名をケンウッドに統一。株価も上昇するという相乗効果をもたらしたのである。

 かくして、不況を切り抜けた新生ケンウッド。しかし、デジタル時代の到来から暫くすると、オーディオブランドの淘汰と再編に拍車がかかり、かつての業界地図は完全に塗り替えられてしまった。

 この異変のなかでケンウッドは、低迷に喘ぐ日本ビクター(JVC)の買収に名乗りをあげて業界を驚かせた。日本ビクターは、日本コロムビアと並ぶ、わが国レコード産業界の老舗。戦後は長らく松下電器(パナソニック)の傘下にあった日本ビクターは、音響・映像の多岐なる分野で一時代を築いた。ところが、業績は悪化の一途。松下にとって、日本ビクターは大きな負担となっていた。

 その後は紆余曲折。当初、ケンウッドは、日本ビクターの高度な映像関連技術に強い関心を寄せていた。しかし、日本ビクターは、度重なるリストラで優秀な技術者を手放し、不動資産のほとんどを売却し尽くす、という崖っぷちに落ち込んだ。それでも両社は、2008年10月に経営統合する道を選んだ。なお、東京丸の内の一等地で半世紀近くに渡り親しまれたトリオ・ショールームは、2015年の3月をもって閉館した。


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